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2月に2009/02/01

なってしまいました。

この週末は育児に追われ、仕事はほとんど手に付かず。

某月刊誌依頼の書評の準備と、締め切りが近付いている原稿の構成を固めたていど。

一昨日、昨日と、期せずしてイタリアのワインが続く。

一昨日は、パルッソParussoという作り手のランゲ・ブリッコ・ロヴェッラ、1999年。ネッビオーロとバルベラに、カベルネ・ソーヴィニヨンのブレンド。アルコール度が14.5度もあり、10年たっても、かなり濃くてパワフル。

昨日は、セロスがフェウーディ・ディ・サングレゴリオとコラボした南イタリアのスプマンテ、ドゥブルのファランギーナ。このワインは何度も飲んでいるけれど、もちろんおいしいから何度も飲んでいるのだけれど、ちょっとボトル差がおおきい印象。今回は残念ながら、相対的にガッカリの巻。パインのような太陽を感じさせるフルーツの香りはチャーミングながら、なんだかフラット。

書評を入稿する2009/02/02

某月刊誌から依頼の書評を入稿する。

上・下二巻本で本文700ページ近い本。いわゆる学術書ではなく、よみやすい本だったので、読み通すこと自体は苦にならなかったが、書評の紙幅は800字あまりなので、こちらが読みながらメモした着想のほとんどは捨てることに。せっかくなので、発売日(来月10日らしいですが)が過ぎたら、このブログに少しアップしようかしら。

考えてみると、800字規模の書評は、朝日新聞の書評委員をしていたとき以来、いささかひさしぶり。この規模の書評は労力の割に、業績にもならず、その意味では報われない仕事(もちろん金銭面やパブリシティの点ではおおいに報われるのだけれど、それにあまり迷ってはいけないし・・・)。もっとも読書嫌いの私にとっては、無理やりにでも読む機会になるので、大切にしなければならないのだけれど。

2月は、大小入り混じりつつ、毎週のように締切がくる。入稿後、すぐに次の原稿にとりかかりたいところだったが、校務関係の仕事がいくつか入っていたので、それを片づけて今日は打ち止め。

ドニ・バシュレ2009/02/05

人気急浮上の作り手ドニ・バシュレを入手。
とりあえず、村名ジュヴレ(VV)、2005年を試す。

スミレ、黒い系の果実、鉄錆のニュアンス。
キレイな酸。量も、こちらの舌のメーターの針を振り切るほど感じる。
そしてかなり硬質の果実味。
後味に、軽いキャラメルのようなミルキーな雰囲気を残す。
2005年ヴィンテージのポテンシャルなのか、味わいに芯があり、
もうすこしこなれてから飲みたい印象。

ここのところ06や05のブルゴーニュの試飲ばかりしている。
05がグレート・イヤーなのはわかるけれども、いま飲むとどれも芯を感じる。対して、06のおいしいこと。みずみずしく伸びやかな作品が多い。いま飲むなら、断然06から選んだほうが満足感が高い。ある意味では当然ながら、プラクティカルにはやっぱり、点数化されたポテンシャルよりも、飲むタイミングのほうが大切。

業務備忘2009/02/05

来週までに仕上げてしまうべき案件。

来期、某講読授業の受講者セレクション
(「理論的な内容になる」とシラバスで脅しておいたのに、30人の定員を超えて応募がくるとは思わなかった)

修士論文口頭試問の準備
(提出前の指導でほとんど内容は知っているので、あまり手間はかからない)

某セミナー授業のレポート採点
(こちらは蓋をあけてみないとわからないものが多い)

某演習レポート優秀作品の選定
(甲乙つけがたい予感)

このへんが片付くと、今年度の教務関係の仕事はあらかた終わりかな。

都内某所2009/02/06

高層ビルの3X階で研究会があり、スピーカーとして話す。
内容は、『現代帝国論』から。

「資本主義の限界という視点が欠けている」と、主宰者からものすごい舌鋒で批判を受け、立ち往生。たいへん消耗する。

たしかに『現代帝国論』の枠組みは、フランクのウォーラーステイン批判を経由しているので、少なくともウォーラーステイン流の「史的システムとしての資本主義」がひきずっている概念の実体化(ないしは概念の歴史へのインポーズ)の否定が前提になっており、資本主義を対象化する理論的契機については触れないまま、「普遍性の複数性の可視度」という一段抽象度の高いところで議論を止めている。

経済学的立場とかかわりなくいえることを、とりあえず言ってしまおうという意図をもってやったことではあるが、現実と切り結ぶ知的態度として、踏み込みが足りない、怠慢だと言われれば、その批判は甘受せねばならない。(よくおもいおこせば、同様の批判は、過日のシノドスのセミナーで芹沢さんからも、やんわりと、しかし鋭く指摘はされていたことなのだ。)

ただ、『現代帝国論』は、「資本主義の限界」という終末論的言説の危険を説く本(そしてほとんどの場合、そこで言われる「資本主義」の中身は、個々の論者が抱く現在の危機認識の投影でしかない)でもあり、その点を譲ることはできない。そのようなかたちでポランニー的不安をあおることは、悪いかたちでのポジティヴな普遍主義(「強力な政治力」への期待や倫理的ヒステリー)への衝迫を高める。


『現代帝国論』は、あくまでせいぜいここ20年程度の知的状況を整理して、ポランニー的不安の高揚にともなって暴力化する思想的状況(ポジティヴな普遍主義では暴力は他者に向かい、ネガティヴな普遍主義は暴力は自己へ向かうのだが)を相対化し、政治的判断の原則的な尺度を提示するところまでの作品である。つましい成果だが、無為なペダントリーだとは思っていない。

しかし、その尺度の有効射程を具体化するためには、『現代帝国論』であいまいに「人類史的」と呼んできた枠組みを、過去に向かっては歴史的に具体化し、それと表裏をなして未来に向かっては、「普遍性の複数性の可視度」の管理の様式の展開について、そのシナリオを提示する必要がある。そして、その作業に、ウォーラーステインに対するフランクの批判によって一度脱構築された資本主義概念を再歴史化/再対象化する作業が含まれることは、もとより承知していることである(それは、現在atで行っている連載の大課題でもある)。