follow ny1971 at http://twitter.com

『資本の帝国』抜き書き(第三章「商業の帝国」)2009/06/02

p. 83-4
帝国主義の装置として経済の至上命令を活用したのはおそらく大英帝国が最初だろう。イギリスは16世紀という早い時点で、この方法を見出していたのだ。ただし…経済的な帝国主義が力をつけて、昔ながらの経済外的な手段によって植民地を支配しなくてすむようになるのは、20世紀になってからのことだった。

p. 84-85
商業的な帝国は、「商業的」とはいえ、資本主義的な帝国とはちがって、経済的な至上命令で支配していたわけではない。商業的な帝国もやはり、経済外的な権力を基本的な支配原理としていたのである。

p. 86
アテナイ帝国は海軍を支えるために拡張したのであり、帝国を拡張するために海軍を強化したわけではない。アテナイは、食料の供給を補うために海軍を設立し、海軍を支えるために帝国を構築した。 たからアテナイ帝国を交易路を支配して利益をあげようとする「商業的な」帝国とは呼べないのである。

p. 87
「商業的な」帝国とは、商人階級、そのパトロン、およびそれを支える政府や貿易会社の利益のために運営される帝国である…。商業的な帝国を結ぶ〈糸〉は、[官僚機構でも、地主階級のネットワークでもなく]商人と交易者であった…。[商業的な帝国の]軍事力はほんらいは領土を獲得するためではなく、陸上と海洋の交易路を確保するために使われた。

p. 92
イスラーム帝国は本質的に商業的な帝国であ[る]。

p.93
アラブの支配者たちは農村の生産者が生み出す富に依存していた…。しかし帝国の発展とともに、都市が農村を従属させる…。[これと対照的なのは中世ヨーロッパであり、そこでは]大都市が成長し、貿易が拡大した…にもかかわらず…地主の貴族階級が支配的な地位を占め続けた。

p. 94
商業的な帝国は、都市や貿易を中心としていたにもかかわらず、あるいは正確にいえばまさにそのために、資本主義と結びついた経済的な至上命令には服していなかった。

p.95
生産者たちは、生存するために゜市場に依存する必要はなかった。

p. 96
要するに、生産者は市場の力で生産に駆り立てられていたわけではないし、収奪者も市場の力を使って生産者を収奪していたわけではなかった。この帝国で機能していたのは、経済外的な収奪の権力だった。

p. 96-97
市場といっても交換のためのネットワークにすぎなかった。[そこでの成功の基盤は]職人的熟練と買い手との長期的な個人的つきあいであった。

p.97
資本主義においては競争力を高めて生産することで多くの剰余価値が得られるが、商業の世界では、経済的な競争力ではなく、どのような経済外的な権力を利用できるかで利益の大きさが決まる。

※このへんが、ブローデリアンとウッドらブレンナリアンの一番かみ合わないところ。

p. 99
イタリアの都市国家が貿易網の中心として、王や貴族の富を利用して利益を得ることができたのは、都市国家が封建制のネットワークの内部にとどまる同時に、ある意味でその外部に出ていたからなのである。

p. 100
イタリアの都市国家の収奪方法は資本主義的な性格のものではない。都市はさまざまな強制力を使って、直接に農民の余剰を収奪していた…。イタリアの都市国家とそのエリート層の本当の富の源泉は農業ではなく、商業と金融業務にあった。

p. 101-2
この時期の交易は、資本主義的ではない[価格競争を原動力としない]原則に従って行われていた…。イタリアの商人たちは…生産者を経済外的に搾取して利益を得ていたのである。

p. 104
ヴェネツィアは商業的な支配を確保するためだけに軍事力を使ったのではない。軍事力は交換可能な商品そのものになっていた。ヴェネツィアが商業的に成功できるかいなかは、最初からイタリア半島の内外の交易網を確保できるかどうかにかかっていた。そのためには圧倒的な海軍の軍事力だけではなく、商業的な才能、特に戦争を商業的な資源として活用する着想が必要だった。

p. 106
交易網というものはたやすく分割できる商品ではなかった…。商業はいわばゼロサムゲームだった。

p. 107-8
商業と戦争、経済外的な権力と経済的な権力を分かち難いかたちで結びつけるヴェネツィアのこのやり方は、商業と都市と資本主義とが結びつくというそれまでの傾向を逸脱している…。ある意味ではイタリアの都市国家は、商業的な封建主義の都市という性格をそなえている・・・。

p. 109
オランダはヴェネツィアをはるかに上回る巨大な商業的帝国を構築した…。[が]植民のための征服は二次的で補助的なものにすぎなかった。

p. 110-111
オランダでは他のヨーロッパ諸国にはみられないほど、農民と比較して都市住民の比率が高かった…。こうした都市の成長は、農業の生産性に直接左右されるものではなかった…。都市が成長し、その成長が持続したのは、オランダが商業的に発展し、ヨーロッパという大きなシステムのなかで重要な役割をはたすようになったことによるものだった。そして国外に商業的な機会がある限り、国内の農村が都市を支える能力を大幅に超えて、都市が富を拡張できたのである。

p. 112-114
オランダが経済外的な収奪の権力に頼っていたことを見逃すべきではない…。資本主義では、労働の生産性を向上させて競争市場で優位に立つことで市場における価格引き下げ圧力に応じようとする。しかしオランダはそれ以前の商業的な帝国と同じように海運と軍事技術など、さまざまな種類の経済外的な優位に頼っていた…。オランダが競争の圧力を受けていたとしたら、それは資本主義的な価格競争の圧力ではなく、非資本主義的で経済外的な競争の圧力であった。

p. 116-7
イギリスの資本主義は、コストを節減する技術革新に投資することで、ヨーロッパ市場の衰退に対処しようとした。反対にオランダは、生産活動への投資を削減したのである。そしてオランダは資本主義的でない商業形式に戻るか、これを強化した…。オランダ共和国では、税収入…の使い道としては軍事力が突出していた…。オランダの商業的な優位が脅かされるようになると、植民地への入植に関心を強めた。そしてほかのどの国にも劣らぬ過酷な植民地征服計画を推進したのである。

※オランダのヘゲモニーの評価もネオブレンナリアンとネオブローデりアンの対立点

p. 120
グロティウスは、自衛のための戦争は、どれほど広義に解釈した場合にも正当なものだと考えていた。そして単なる自衛の戦争だけでなく、商業的な利益だけを目的としたきわめて攻撃的な戦争も、正当なものになりうるという理論を構築した。伝統的な「正戦」論では、戦争が「正しい」戦争であるためには、その戦争が適切な権限を持つ当事者によって遂行されることが必要だった。ところがグロティウスの新しい正戦論
は、主権をもつ国家だけではなく、民間の商業的な企業も、戦争をする正当な当事者となりうることを主張するものだった。

※自由貿易擁護の理論を、商業帝国擁護の理論と解釈する。
Historcal Materialism 10(1)掲載のWood論文(2002)"Infoinite War"

Richard Tuck (1999), The Right of War and Peace: Political Thought and International Order from Grotius to Kant, OUP
は要検討

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック