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新年度初日2016/04/01

新年度初日。今日から総合企画室勤め。

まず朱雀に出勤。
部長から総合企画室と国際連携室それぞれに紹介をしていただく。

デスクは週明けに準備できるとのこと。あとは名刺の手配、タクシー券の配給などこまごま。

同じフロアの学事課へ行き、タクシー券、携帯電話など返納。

教学部副部長としての残務、新入院生オリエンテーションでの研究倫理プレセミナー講師@朱雀。

午後衣笠に移動して、同講師@衣笠。
原木先生にご挨拶。

空き時間や移動中に翻訳をちまちま進めつつ、学会誌の編集業務。
読書進まず。

職場復帰2011/04/02

無事に帰国し、昨日四月一日より本務校に復帰しました。今年はカレンダーの都合などで、全学の入学に先立って学部の入学式が先に行われました。今年度からわが立命館大学国際関係学部では全単位英語で学ぶグローバル・スタディーズ専攻が発足し、学部長のスピーチも日英両語で話されました。

教員の自己紹介は、時間の都合で日英どちらでも良いとのことでしたが、結局大半の教員が日英両語で挨拶しました。

アメリカ、カナダ、ドイツ、ネパール、シンガポールなどの国々からこられた、国際色豊かな新任の先生方をたくさんお迎えし(その先生方は逆に多くの先生方が片言でも日本語も交えて語りかけてくださいました)、新入生も「これはおもしろいところにきたぞ」という表情でした。

それにしても、結果的になにもかも日英両語になり(それどころか非英語圏を専門になさる先生には、日英両語どころか、三ヶ国語を交えて挨拶される方までおられ)、式次第に時間のかかること。今後、いろんなところで、これは課題になりそうな気がします。

先生方のあいさつの中で個人的に印象に残ったのは、高橋伸彰先生の言葉。「複数の言語を学ぶことは、なにが翻訳可能で、なにが翻訳不能かを知ることだ」と指摘され、なにもかも翻訳可能であると「国際語」に押しつけることも、なにもかも翻訳不能であると母語に立てこもることも、あるいは傲慢でありあるいは怠惰であると述べられました。

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本日土曜日もオリエンテーション業務で出勤。今年は一年生向けの演習(クラスとして機能する)を担当。これから顔合わせ。どんな学生諸君が集まったか、おおいいに楽しみ。

震災2011/03/13

(震災後、山下の家族について安否を問う連絡をたくさん頂戴しました。ありがとうございます。山下の家族は全員無事です。さしあたり物的な被害もありません。以下は、地震当日の個人的な記録です。特に公共性を意図した記事ではありませんが、災害時に家族が海外にいた場合に起こったことの例として、ここに書くことにしました。)

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時差(イギリスは九時間遅れ)のため、地震当日、朝起きてPCを立ち上げると、ヘッドラインですでに地震が報じられていた。第一印象は「東北で地震か・・・」ていど。大地震とは思わず、まして東京に影響があるとは思わなかった。

しかしメールに目を移すと、妻からツイッターのDMが届いており、「地震ありましたが、無事です。新宿から帰る目処なし」と書かれていて、「東京で帰る目処が立たない? 東北の地震じゃないの?」と混乱。あらためてウェブのニュースを見て「震度7、東京も震度5弱」という数字で客観的に大ごとだと理解。しかし「とりあえず無事でよかった。○○(息子の名)やお父さん、お母さんも大丈夫?」と、今思えば、間抜けというか、ひどい返事をする。

妻からツイッターDMで返信。こちらから義父母宅に電話で安否の確認をしてほしい、と。携帯電話の通話機能、メール機能はアウトなのを、この時点で知る。公衆電話も大行列、と。

さっそく義父母宅へ国際電話をかけたが、まるでかからず。これで事態が容易でないことがようやく感覚に浸透し、急に胸が苦しくなる。

阪神大震災のときも、当時大阪に住んでいた両親に連絡がつかず、あせりまくったが、結果的には両親にはほとんど被害はなかったことを思い出して冷静になろうとする。

そこで奈良の両親に電話してみる。これは通じ、まずは両親の安否を確認(関西も津波が報じられており、海辺に出かけている可能性もあったので)。奈良から義父母宅への安否確認を試みてもらう。しかし、奈良からのランドラインでも東京の義父母宅にはかからず。

この間、妻が新宿から帰宅する方法がないかウェブ上の情報を探しまくる。しかしわかったのは、首都圏の鉄道が完全に麻痺しているということだけ。とにかくPCにはりついて妻との連絡が途切れないようにする。(ただ、京王と小田急は線路の巡回点検中という表示が途中で出るようになり、相対的に早い復旧を期待させた。)

市役所のサイトを見ると、義父母宅のあたりに停電が出ているという情報が上がっており、不安が増す。

日本時間で六時を過ぎ、妻から「お迎え時間すぎた。母が迎えに行けたか不明。保育園に連絡してみてくれる?」とDM。保育園に電話するがやはりかからず。

実は義父母宅に電話がかからなかったあたりから息子のことが気になっていたが、出先で立ち往生している妻に息子の話を出してもストレスを増やすだけだと途中で悟り、黙っていた。結果的に、自分の不安もそれでいくらかおさえられていたが、ここで息子の安否の確認が明示的にアジェンダになり、義母か息子、あるいはその両方が怪我などで身動きが取れていないのではないかと悪い想像が急激に心中で膨らんだ。

他方、「お迎え」と聞いて、東京は日が落ちていることに思いがいたり、妻の今日中の帰宅が不可能であることをこちらでも悟る(自宅は新宿から妻一人ではとうてい歩けない道のり、電鉄各社のサイトもこの時点では動きなし)。

今できることに集中するしかないと思いなおし、避難所情報をウェブで探し始める。ツイッターの検索機能を利用し、ある程度確かそうな情報を、どんどん妻にDMで送った(妻のiphoneの電源が心細くなってきており、ウェブにつなぎ続けて検索するわけにはいかなそうだったので)。また義父は技術系の人間なので、ひょっとしたら見るかもとおもい、妻の生存情報をグーグルの災害サイトに登録した。

妻の提案で、奈良の実家から171に妻の安否の録音を試みるが、171は録音側は被災地域からのみ受け付けるしくみで果たせず。せめてとおもい、逆に義父母から録音がないか再生を試みてもらうが、録音なし。

このあと一時間ほど避難所情報や帰宅困難者向けサーヴィス情報を送る。

午後7時半ごろ、妻からDMで息子と義父母の無事を知らされ、ともかくほっとする。義母が通常通り保育園にお迎えに行ってくれたそうで、連絡がつかない以外は特に深刻なことはなかったようす。

妻は、こちらの拾った「新宿高島屋が開放」の情報を信じ、新南口へむかったが、これは誤報だった。しかたなく、向いのホテルのロビーで休息をとる。ホテルからは水とカンパンの差し入れをいただいたそう。

誤報に腹をたてていてもしかたがないので、善後策を探して、こちらからも情報を送り続ける。工学院大学の開放がたぶん確かな情報ということで、一応一夜を越す目処が立つ。

実はこの日、こちらでは、私の送別会が予定されていた。正直、息子と義父母の無事を確認するまで、そのことをほとんど忘れていたが、家族の無事がわかって、「さてどうするか」となった。

その会はある先生の自宅で開かれる会で、私のために準備してもらっており、結構な人数集まることも知らされていたので、ドタキャンは悪いという気持ちと、しかしすでにイギリスでも朝から地震報道一色で、当然彼らもそのことを知っており、被災国の人間を囲んでパーティなど向こうを困惑させるだけなのではないかという気持ちが同時に湧いた。不便で不安な一夜を過ごす妻に悪いという気持ちもあった。

が、小一時間ほど逡巡ののち、彼らは私のために集まってくれる以上、少なくとも私が出て行って「私の家族は無事です」と告げるべきと思い至り、出かけることに。彼らから受けるであろう同情に丁寧に礼を言い、かつ穏やかさを保てるよう、イメージトレーニングをしつつ、妻には「そちらの時間で未明から早朝はすこし連絡がつきにくい」とだけ伝え、電話と携帯用wifiルータとipod touchをもって出かける。

パーティは幸い場の雰囲気が壊れることもなく、私はつつがなく送られた。ホストの先生の人徳が大きい。感謝。

帰るころには、日本は既に土曜の朝だったので、帰宅の道すがらに義父母宅に電話してみるとつながった。ちょうど妻、そして同じく都心の出先で足止めになり、避難所で一夜を明かした義父が、義父母宅に着いたところだった。全員無事に帰宅を知り安堵。聞けば、妻は結局、工学院大学ではなく、個人的に頼れる宿泊先を見つけられたとのことで、結果的には、この大惨事の中では、ほとんど何事もなかったに等しいていどのことですんだ。幸運としかいいようがない。

翻って考えると、私がDMで送り続けた情報は、誤報か結局は利用されなかったものばかりだったが、妻曰く「つながっている安心感がよかった」とのこと。それはこちらも同じで、ツイッターがなかったら、はるかに長い間誰の安否も分からず、もっと深刻に不安を抱えてすごすことになっただろう。

どこでも言われている教訓だが、災害に備えて何かあった場合の連絡の手段をできるだけ多く確保すると同時に(私と妻以外の家族にも非常用にツイッターなりフェイスブックなりのアカウントをもっておいてもらおうかという話がでている)、どの安否確認サーヴィスを使うのか(NTTの171以外にも、携帯各社やグーグルのサーヴィスなどいろいろありすぎて結局どれも使えなかった)についてあらかじめ決めておく必要を痛感した。そのていどのこともせず単身で海外に赴任したことを大いに悔いた。

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とりあえず家族は無事でしたが、震源に近い地域の惨状は日増しに深刻で、言葉が出ません。原発も予断をゆるさない状況が続きますが、ここにいては文字通り祈ること(あとできるだけ寄付の算段をつけること)しかできません。

この週末は、仕事らしい仕事にはなにも手につきませんでした。

帰国を早めることも考えましたが、どんなに頑張っても一週間程度しか早められず、それよりは予定通りにことをすすめ、帰国後頑張れる態勢をととのえて帰るほうがよいと考え、のこり二週間イギリスに留まることにしました。ウェブやテレビばかりみていると滅入るので、帰国のための部屋の片付けで気を紛らわせていますが、明日からはむしろ粛々と残った仕事を片付けようと思います。

なお私の帰国は3/26日イギリス発、27日の午前日本着の予定です。

学外研究2010/03/08

ご存知の方はすでにご存じかとは思いますが、来年度(2010年度)一年間、イギリスのサセックス大学において学外研究を行うことになりました。同学国際関係学部の客員研究員(Visiting Research Fellow)として、Benno TeschkeさんのMentorshipのもと、一年間の学外研究に従事します。

昨秋のはじめにはすでに内定していたのですが、ビザが発給されるまでは公表は避けてきました。ようやく無事にビザの発給を受け、さしあたり本プログにてご報告する次第です。

この学外研究にともない、来年度の立命館大学における私の担当科目はすべて閉講ないしは別の先生による代講となります。またこの学外研究を念頭に、昨秋以降、期日が2010年度にかかる新規の原稿や講演などの依頼は、原則的にお断りしております。なにとぞあしからず、ご理解ください。

渡英は3/31を予定していますが、今月は準備であわただしく、また先方での住まいなどもまだ決まっていないため、来月中旬くらいまでは落ち着かないであろうことが予測されます。そのため、当面、山下とのコンタクトがとりにくい状況が続きますが、この点、重ねてあしからず、ご理解ください。メールは、これまでどおりのアドレスでイギリスでも読めるようにしてあります。できるだけ毎日確認するようにいたしますので、山下にご用の方は、メールでのコンタクトをお願い申しあげます。

『ワインで考えるグローバリゼーション』続報2009/12/07

拙著『ワインで考えるグローバリゼーション』が、朝日新聞、読売新聞に続いて他のメディアでも紹介されているようです。

ワイン専門誌『ヴィノテーク』の12月号に短い書評。業界では激辛で有名なコーナーなので、ビビリましたが、一命はとりとめました。

なぜか『経済セミナー』の2009年12月/2010年1月号にも新刊紹介でとりあげられました。

おそらく次の日曜日には京都新聞にも書評が出る予定。

また毎日新聞の『エコノミスト』誌からも取材の依頼。1月のいずれかの週に掲載の予定だそうです。