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『資本の帝国』抜き書き(第一章)2009/06/01

エレン・メイクシンズ・ウッド『資本の帝国』(紀伊国屋書店)の抜き書き

資本主義では、搾取は純粋に「経済的な」性格のものになった。そして生活はますます商品化され、社会関係は市場の「法則」という非人称的ななもので規制されるようになった。そのために、政治の圏域からはっきりと分離した経済の圏域が形成された…。政治の圏域そのものが、経済とはっきり分離された独自の領域として存在するようになった。
pp.31-32

現在のグローバル化された資本主義においても、あるいはまさに現代においてこそ、資本主義の権力が集中している枢要な場所は国家であること、そして〈資本の帝国〉は、複数の国家で構築されたシステムに依存している・・・。
p.36

[資本主義においては]地主は小作人に…市場の条件によって決められた地代を払わせようとする。そして小作人も、市場における競争のもとで成功を収めなければならなくなった。小作人が生産性と競争力を向上させることができるかどうかに、地主と小作人の双方の成功がかかっていたのである。
p.41

※資本主義の矛盾の二類型
 ・ポランニー的理解:自己調整市場のVolatilityの暴力
 ・ブローデル的理解:独占による関係の非対称性の暴力

…領土を基礎とした国民国家のほかには、これらの[政治的な支配の及ばないところにまで及ぶ資本主義の経済的権力にとって必要な制度を提供するという]問題に対処しうる経済外的な権力の形式がまったく考案されていないのである…。要するに資本が国外に拡張できたのは、資本の権力が経済外的な権力からこれまでにないかたちで分離されたためである。ところが二つの権力が分離されたからこそ、国民国家が資本の経済的な覇権を支えることが可能になり、支えなければならなくなったのである。
p.53

『資本の帝国』抜き書き(第二章「所有の帝国」)2009/06/01

ローマ帝国はいわば、植民地主義的な「帝国」と呼べる初めての帝国だったのである。
p.56

これ[ローマ帝国]とは対照的なのが中国の初期の帝国である…。[中国の]軍事力は、のちのヨーロッパの帝国とちがって、植民地を作ることを目的とはしていなかった。
pp.56-7

[中国は]帝国というよりも、広大な領土にまたがる一つの巨大な国家が存在していたと考えるべきであろう…。中国の帝国が直面していたのは、帝国を中央集権的な官僚機構が支配する場合にはつねに発生するジレンマだった。
p.58
※青銅器時代のギリシア、エジプト新王国、インカ帝国などの「高度」文明もここに分類される。
※ポランニー的な再分配のための官僚制が小作人から余剰労働を収奪する体制。アイゼンシュタットの帝国概念もこれに近い。

…ローマ帝国には、こうした[中国の帝国のような]制約はなかった。まず共和国のローマを統治していたのは貴族階級となった地主であった。
…富の主要な源泉は土地であり、国の役人としての地位ではなかった…。そして大地主は農民ではなく奴隷の余剰労働を搾取した…。
ローマ帝国とほかの巨大な帝国との大きな違いは、ローマでは奴隷制度が発展したことにある。
p.58-61

※p.60 l.11-12の「前四世紀に…ローマ世界とギリシア世界を統一したヘレニズム帝国」は、原文は単にHelenistic empire。親切で補足したのだろうが、誤りと言わざるをえない。アレクサンドロスの征服で統一というか融合したのは、ギリシアとオリエントであって、ローマではない。補足して訳すなら「アレクサンドロス大王死後のギリシア世界におけるヘレニズム帝国」くらいだろう。

この帝国[清朝]は巨大な富を蓄積していたが、この富は資産の所有によってではなく、役人としての地位から得られたものだった。それだけに帝国は、税金の源泉である農民の土地所有を保護し、地主の貴族階級が成長するのを妨げようとしていた。これとは対照的にローマでは、帝国の中枢でも地方でも、地主階級が官僚機構を独占していた。絶対主義国家のフランスや、商業が高度に進んでいたオランダ共和国では、土地を所有することで蓄積された富の力で、魅力的な役人の地位を獲得できた。反対にローマ帝国では、役人の地位を獲得することが土地を取得するための近道だった。
p.63
※このパッセージは実証的にはかなり怪しい。

※p.65 l.11~p.66 l.2も誤訳。

このようにローマ帝国には二つの土台があった―強力な個人資産のシステムと強大な軍事力である…。しかし個人資産が強固な土台となった社会では、富の最大の源泉がつねに個人資産にあると考えることはできない。だから個人の資産を強化することで、帝国が拡大していったと考えることもできないのである…。帝国もその支配階級も、帝国本土では徴税によって巨大な富を蓄積した。そして地方では貢納物と税の徴収によって支配を拡張していたのである。

原文は、

The Roman Empire ... rested on a dual foundation: a strong system of private property and a powerful military force. This proposition may seem self-evident, even banal. But, just as it cannot be taken for granted, even in societies with well developed private property, that the greatest wealth necessarily derives from it, we cannot assume that imperial expansion is always an extension of appropriation by that means...Just as states and dominant classes at home derived great wealth from taxation, so, too, did imperial domination extend that mode of appropriation, through the medium of tribute and tax.

訳すならこうだろう。

ローマ帝国には二つの土台があった。強固な私的所有のシステムと強力な軍事力である。この命題は自明、というか平凡すぎるもののように聞こえるかもしれないが、私的所有制がよく発達した社会においてさえ、私的資産が必ずしも最大の富の源泉であると決めつけてかかるわけにはいかないのとおなじように、帝国の拡大もまた、同じ手段、つまり私的資産による収奪の拡大であるとつねに決めてかかるわけにはいかないのである…。国家および支配階級の本国における巨大な富の源泉が課税にあったのとまったく同じように、帝国の支配もまた、[国家による直接的収用]という収奪の様式を、課税および貢納というかたちで拡大したのである。

国家による課税と私的所有という二つの収奪の様式の対比が、前近代の帝国に関するウッドの議論の軸になっているのだが、邦訳は、このパッセージの前後では、その理路を見失っているように感じられる。全体としては良い訳なので残念なところだ。

p. 66
ただし帝国の論理は、税に飢えた役人の論理ではなく、土地に飢えた貴族の私的所有の論理にしたがっていた。

p. 67
このように分断されたローマ帝国は地方ごとに統治されていた。このため中枢と地方を結びつけるために、文化的な絆と普遍主義的イデオロギーがとくに重視されるようになった。

p. 71
いわゆる帝国の「衰退」が西ローマだけで起こり、東ローマでは起きなかったことは注目に値する。東ローマ帝国の支配機構は、古代のほかの帝国と似たものになっていた。官僚的な国家が役人の地位に応じて土地を与えていたのである。

※所有の帝国は細分化の内在的傾向をもっている。帝国として持続するのはむしろ巨大な官僚制国家。

p. 73
スペインは帝国を拡張するために、巨大な官僚制の装置で新しい領土を統治するという方法をとらなかった。ラテンアメリカの植民地では、個人資産に基づいた現地の分散した政治的および経済的な権力を、スペイン帝国がごく遠いところから支配するという方法をとったのだった。

p. 74
[スペイン帝国の植民地支配の拡大は]私的な富を追い求めていた征服者たちに帝国の公的な業務を請け負わせ[ることで実現された]。

※王立会社的なものが近世帝国の本質
※もっといえば徴税請負が近世帝国のシンプトム

p. 77
[スペイン帝国は]征服そのものを目的としていた…。その後に進出した他のヨーロッパ諸国とは異なり、スペインは自らを征服者とみなしており、そのことわごまかそうとはしなかった。

※根拠は、パグデンの議論。Lords of All the World。

p. 79-80
くどいので対照はやめるがここも超訳で論旨が崩れている。訳しなおせば下記のとおり。

[スペイン帝国における新しい神学的伝統は]「正義の戦争」の理論でスペインの支配を正当化しようとするものであった…。この征服のイデオロギーは、一方ではキリスト教的な正当化に基礎づけられていたが、他方では依然として明らかに封建貴族的な軍事的価値、すなわち封建的な「誉れ」の概念にも基礎をおくものであった。これは、イギリスやまたある程度まではフランスの帝国主義的野心(その実際の血なまぐささはスペインと変わらないわけだが)に添えて唱えられた商業や農業の平和的な「徳」の概念とはまったく異なるものであった。

※同じく根拠はパグデン。

p. 81
ここも超訳。いささかうんざり。訳しなおす。

[所有の帝国は、]経済外的権力に依存しているにもかかわらず、その経済外的権力を分散させることによってしか、権力が地理的に及ぶ範囲を拡大することのできないような世界帝国であり、そのような世界帝国はどのようなものであれ、内在的な不安定性を抱えているということを考えなければならない。

第三章以下は後日。

読書術2009/06/02

ずいぶん前の週刊東洋経済で佐藤優が読書術を指南していた。

だいたいしか覚えていないが、彼曰く、三種類の読書を使い分けろ、と。

すなわち、「超速読」と「普通の速読」、そして「熟読」である。

超速読は、一冊五分。目次や見出し、ゴシック体ののところ、結論部などをざっと読み、読むか読まないか、熟読するか普通の速読にするかを選別するための読書。

普通の速読は、一ページ30秒で、決して返り読みせず、ひたすら線を引き、丸で囲み、付箋を貼りながら一気に最後まで読む。

熟読は、一冊を三度読む。一度目は線を引き、付箋を貼りながら通読。
二度目は特に重要な箇所を抜き書きしていく。抜き書きは全体量の10%以内。自分のコメントも適宜つけていく。三度目は二度目につくったノートを踏まえて再度通読し、特に結論から著者の議論のエートスをつかむ。

とまあ、だいたいこんな話だった。

三つの読書法のうち、超速読と熟読は、文系の研究者なら普通にやっていること。
書店で本を手に取り、表紙、裏表紙、著者プロフィール、目次、文献一覧、索引、あとがき、まえがきを読んでハイ5分みたいなことは、日常だろう。これは、どういう本が出ているのかという情報をとるための作業だから、「読書」という意識はないし、まして「超速読」などと称したりもしないが、まあ大事な作業であることはたしか。
「ノートを取りながら三回読め」とは、輪読のゼミなら、どの教官でも指示すること。まず通読、次にノート、そして再度通読で自分にとってのその本の意義を確認(輪読のゼミなら、これではじめてレジュメが書ける)というのは、当たり前の手順。

おそらく佐藤式読書術の要は、「普通の速読」にあるのだろう。だが、私はこういう読み方はほとんどしない。ひとつは読む本の種類もあるし、また一応職業研究者のはしくれである以上、そこまで時間を節約して本を読むよりは、ほかのことにかかる時間を節約して本を読むべきだからでもある。強いて言えば、学部低学年向けのゼミのテキストを授業の直前に(何年かぶりに)読み返すようなときは、こういう読み方をしていなくもないが、それも初見での話ではない。

実際的には、私は佐藤式とは違って、「普通の速読」はしないかわりに、軽い熟読と重い熟読を、なんとなく、使い分けてはいるかもしれない。

軽い熟読では、一読目に線を引きページの端を折り、余白にちょっとした図式を描いて整理しながらよんでしまい、あとから線を引いたところと自分が書いた整理を確認するためにざっと通読して終わりというもの。わりと分厚い本でも、専門が近く、自分の議論のマッピングのなかでのその本の位置にあらかじめあたりがついている場合は、これで済んでしまうことが多い。

重い熟読は、一読目は軽い熟読と同じだけれども、二読目でさらに詳しくノートや関連文献リストなどを作りながら読み(というか読まざるをえなくなり)、それからノートの内容のスジを俯瞰的に再考するために三読する。

と、こんな話を学生としていたら、ある学生が「その軽い熟読の仕方をもっと教えてほしい」と言い出した。方法だけ抜き取って教えられることには限界があるので、「実演」を示しましょということで、軽く熟読した本の中で手ごろなものの線を引いた部分の抜き書きと余白に書いたメモをこのブログにアップしてみることにした。それが昨日から始まっているエレン・メイクシンズ・ウッドの『資本の帝国』の抜き書き。一応最後までやるつもり。

追記
ただし誤訳の指摘は、実際の軽い通読では、一読目で「誤訳?」と本に書き込むだけ。あとで原書で確認する。今回はブログにアップするにあたり、ちょっと手間をかけて、誤訳箇所の原文と訂正案も書いてみた。でも面倒だから、あとの章ではもうやらないかも。

『資本の帝国』抜き書き(第三章「商業の帝国」)2009/06/02

p. 83-4
帝国主義の装置として経済の至上命令を活用したのはおそらく大英帝国が最初だろう。イギリスは16世紀という早い時点で、この方法を見出していたのだ。ただし…経済的な帝国主義が力をつけて、昔ながらの経済外的な手段によって植民地を支配しなくてすむようになるのは、20世紀になってからのことだった。

p. 84-85
商業的な帝国は、「商業的」とはいえ、資本主義的な帝国とはちがって、経済的な至上命令で支配していたわけではない。商業的な帝国もやはり、経済外的な権力を基本的な支配原理としていたのである。

p. 86
アテナイ帝国は海軍を支えるために拡張したのであり、帝国を拡張するために海軍を強化したわけではない。アテナイは、食料の供給を補うために海軍を設立し、海軍を支えるために帝国を構築した。 たからアテナイ帝国を交易路を支配して利益をあげようとする「商業的な」帝国とは呼べないのである。

p. 87
「商業的な」帝国とは、商人階級、そのパトロン、およびそれを支える政府や貿易会社の利益のために運営される帝国である…。商業的な帝国を結ぶ〈糸〉は、[官僚機構でも、地主階級のネットワークでもなく]商人と交易者であった…。[商業的な帝国の]軍事力はほんらいは領土を獲得するためではなく、陸上と海洋の交易路を確保するために使われた。

p. 92
イスラーム帝国は本質的に商業的な帝国であ[る]。

p.93
アラブの支配者たちは農村の生産者が生み出す富に依存していた…。しかし帝国の発展とともに、都市が農村を従属させる…。[これと対照的なのは中世ヨーロッパであり、そこでは]大都市が成長し、貿易が拡大した…にもかかわらず…地主の貴族階級が支配的な地位を占め続けた。

p. 94
商業的な帝国は、都市や貿易を中心としていたにもかかわらず、あるいは正確にいえばまさにそのために、資本主義と結びついた経済的な至上命令には服していなかった。

p.95
生産者たちは、生存するために゜市場に依存する必要はなかった。

p. 96
要するに、生産者は市場の力で生産に駆り立てられていたわけではないし、収奪者も市場の力を使って生産者を収奪していたわけではなかった。この帝国で機能していたのは、経済外的な収奪の権力だった。

p. 96-97
市場といっても交換のためのネットワークにすぎなかった。[そこでの成功の基盤は]職人的熟練と買い手との長期的な個人的つきあいであった。

p.97
資本主義においては競争力を高めて生産することで多くの剰余価値が得られるが、商業の世界では、経済的な競争力ではなく、どのような経済外的な権力を利用できるかで利益の大きさが決まる。

※このへんが、ブローデリアンとウッドらブレンナリアンの一番かみ合わないところ。

p. 99
イタリアの都市国家が貿易網の中心として、王や貴族の富を利用して利益を得ることができたのは、都市国家が封建制のネットワークの内部にとどまる同時に、ある意味でその外部に出ていたからなのである。

p. 100
イタリアの都市国家の収奪方法は資本主義的な性格のものではない。都市はさまざまな強制力を使って、直接に農民の余剰を収奪していた…。イタリアの都市国家とそのエリート層の本当の富の源泉は農業ではなく、商業と金融業務にあった。

p. 101-2
この時期の交易は、資本主義的ではない[価格競争を原動力としない]原則に従って行われていた…。イタリアの商人たちは…生産者を経済外的に搾取して利益を得ていたのである。

p. 104
ヴェネツィアは商業的な支配を確保するためだけに軍事力を使ったのではない。軍事力は交換可能な商品そのものになっていた。ヴェネツィアが商業的に成功できるかいなかは、最初からイタリア半島の内外の交易網を確保できるかどうかにかかっていた。そのためには圧倒的な海軍の軍事力だけではなく、商業的な才能、特に戦争を商業的な資源として活用する着想が必要だった。

p. 106
交易網というものはたやすく分割できる商品ではなかった…。商業はいわばゼロサムゲームだった。

p. 107-8
商業と戦争、経済外的な権力と経済的な権力を分かち難いかたちで結びつけるヴェネツィアのこのやり方は、商業と都市と資本主義とが結びつくというそれまでの傾向を逸脱している…。ある意味ではイタリアの都市国家は、商業的な封建主義の都市という性格をそなえている・・・。

p. 109
オランダはヴェネツィアをはるかに上回る巨大な商業的帝国を構築した…。[が]植民のための征服は二次的で補助的なものにすぎなかった。

p. 110-111
オランダでは他のヨーロッパ諸国にはみられないほど、農民と比較して都市住民の比率が高かった…。こうした都市の成長は、農業の生産性に直接左右されるものではなかった…。都市が成長し、その成長が持続したのは、オランダが商業的に発展し、ヨーロッパという大きなシステムのなかで重要な役割をはたすようになったことによるものだった。そして国外に商業的な機会がある限り、国内の農村が都市を支える能力を大幅に超えて、都市が富を拡張できたのである。

p. 112-114
オランダが経済外的な収奪の権力に頼っていたことを見逃すべきではない…。資本主義では、労働の生産性を向上させて競争市場で優位に立つことで市場における価格引き下げ圧力に応じようとする。しかしオランダはそれ以前の商業的な帝国と同じように海運と軍事技術など、さまざまな種類の経済外的な優位に頼っていた…。オランダが競争の圧力を受けていたとしたら、それは資本主義的な価格競争の圧力ではなく、非資本主義的で経済外的な競争の圧力であった。

p. 116-7
イギリスの資本主義は、コストを節減する技術革新に投資することで、ヨーロッパ市場の衰退に対処しようとした。反対にオランダは、生産活動への投資を削減したのである。そしてオランダは資本主義的でない商業形式に戻るか、これを強化した…。オランダ共和国では、税収入…の使い道としては軍事力が突出していた…。オランダの商業的な優位が脅かされるようになると、植民地への入植に関心を強めた。そしてほかのどの国にも劣らぬ過酷な植民地征服計画を推進したのである。

※オランダのヘゲモニーの評価もネオブレンナリアンとネオブローデりアンの対立点

p. 120
グロティウスは、自衛のための戦争は、どれほど広義に解釈した場合にも正当なものだと考えていた。そして単なる自衛の戦争だけでなく、商業的な利益だけを目的としたきわめて攻撃的な戦争も、正当なものになりうるという理論を構築した。伝統的な「正戦」論では、戦争が「正しい」戦争であるためには、その戦争が適切な権限を持つ当事者によって遂行されることが必要だった。ところがグロティウスの新しい正戦論
は、主権をもつ国家だけではなく、民間の商業的な企業も、戦争をする正当な当事者となりうることを主張するものだった。

※自由貿易擁護の理論を、商業帝国擁護の理論と解釈する。
Historcal Materialism 10(1)掲載のWood論文(2002)"Infoinite War"

Richard Tuck (1999), The Right of War and Peace: Political Thought and International Order from Grotius to Kant, OUP
は要検討

『資本の帝国』抜き書き(第四章「新しい帝国」)2009/06/02

p. 127
イギリス、特に帝国初期のイングランドは、ローマ帝国以来、植民という方法で権力を強化することに成功した初めての帝国と自認していた…。イングランドにとっては、植民そのものが目的だった。

p. 128-130
1516年のこと、トマス・モアはのちに古典となった著作『ユートピア』で、イギリスの大作家としては初めて、異国の土地への入植を古代ローマの植民という名で呼んだ…。モアは一世紀後のグロティウスの理論を先取りしていた…。先住民を強制的に収奪することを正当化したのである。

p. 131-133
[イングランドの国内の植民地化の過程で]地主は市場の条件に応じて賃借料を変えられるようになり、小作地を貸し出す条件として土地の「改善」を求めることができた…。地主から土地を借りた借地農は、賃金労働者を雇用することが多かった…。「土地が政治的な機能と責務の基盤となるという中世的な概念から、土地は所得を獲得するための投資であるとみなす近代的な視点」(R.H.トーニー)への移行が最高潮になったのは16世紀だった。

p. 135
イングランドが新しい原則を試した「実験室」は…アイルランドだった。

p. 138
いわゆる伝統的な「需要中心の再分配的な経済」を、市場の命令に服する資本主義的な経済に、改造しようとしたのだった。

p. 141
イギリス人がアイルランドの土地を収奪できるのは、土地が占有されていなかったためではないし…耕作されていなかったからでもない…。イギリスの商業的な基準から判断して、十分な収穫と利益とをもたらしていないからである。

p. 142
ここで重要なのは、価値についての理論が転換していることである。商業的な帝国では、「安く買って、高く売る」非等価な交換によって価値が生まれるという交換価値の理論を採用していた。しかし新しい帝国では、生産の競争力を高めることで土地を「改良」し、農業の生産性を向上させることで価値が生まれると考えている。交換を価値の源泉とする商業的な価値の理論から、労働を重視する資本主義的な価値の理論に転換しているのである。

p. 147
資本主義にはどうしても解消できない矛盾がいくつも存在する。たとえば資本主義は競争のもとでの市場の命令を拡張しようと試みながら、一方ではこうした競争を抑止しようと試みる。また消費者の需要を増やす必要があるが搾取された住民は資産を失い、貧困に陥るために需要の増大は制限されざるをえない。

p. 148-9
大英帝国はアイルランド以外の植民地では、イングランドに固有の所有関係を作り出すことには失敗した…。しかし経済的な至上命令が貫徹するようになり、植民地で直接に強制力を行使し、海軍の力で貿易を支配しなくてもすむようになるまでは、きわめて長い時間がかかるものなのである。

※だとすると、少なくとも近世のイギリス帝国と十九世紀以降のイギリス帝国はやっぱりカテゴリーとして分けないといけないのではないか。